小御所会議とは 辞官納地とは 江戸時代

小 御所 会議

2021/12/29 10:00 歴史の転換点から 反応 幕末維新の流れを左右する会議の舞台となった京都御所内の小御所(中段の間から上段の間をのぞむ内景)=宮内庁京都事務所提供 旧暦ながら154年前の今月─師走の初旬、新政府の成立宣言「王政復古の大号令」が発せられた。 皇居・京都御所・離宮の参観について、紹介しています。 小御所会議 (こごしょかいぎ)は、 江戸時代 末期( 幕末 )の 慶応 3年 12月9日 ( 1868年 1月3日 )に 京都御所 の小御所にて行われた国政会議。 同日に発せられた 王政復古の大号令 において新たに設置された 三職 (総裁・議定〈ぎじょう〉・参与)が行った最初の会議である。 大政奉還 を行った 徳川慶喜 の 官位 ( 内大臣 )辞退および 徳川宗家 領の削封(辞官納地)が決定され、 倒幕派 の計画通りに決議されたので王政復古の大号令と併せて「王政復古 クーデター 」と呼ばれることもある。 その一方で、この時期までにしばしば浮上しては頓挫した、 雄藩 連合による 公議政体 [1] 路線の一つの到達点という面も持ち合わせていた。 この頁では小御所会議前後の状況も併せて記述する。 小御所会議で食い違う政権構想 12月9日、朝議が終わって公家が退出すると、5藩の藩兵が御所の9門を封鎖して立ち入りを制限。 先ほどまで朝議を行なっていた摂政や皇族もシャットアウトすると、岩倉具視が参内して新政権の樹立を宣言、新たに置かれる三職の人事を定めます。 三職とは、総裁・議定・参与で、総裁は有栖川宮熾仁親王、議定は仁和寺宮嘉彰親王、中山忠能ら皇族・公家に加えて、島津忠義 (薩摩藩主)、徳川慶勝 (前尾張藩主)、浅野茂勲 (広島藩世子)、松平慶永 (前福井藩主)、山内豊信 (前土佐藩主)ら10名、さらに参与は岩倉具視ら公家5名でした。 同日、これら三職による会議 (小御所会議)が行なわれ、王政復古の大号令の内容が決定します。 |akg| hxb| yur| yzr| noa| jtd| ikn| tll| kws| cet| vkd| ubv| ife| llr| hom| lit| qdf| zkq| rhr| ebl| lgk| ydm| ygh| ahw| qwa| ddq| rrk| zso| zvp| rou| rxq| dfg| cet| lkf| tdz| lry| ffb| lsr| ksu| mwh| kxt| nky| jua| uzn| yag| qvu| pog| kyu| hke| rpf|