〘 オリジナル 〙Riparia Records - 山紫水明

山 紫水 明 処

この「山紫水明處」は山陽が造った書斎兼茶室です。 山陽は東山の眺望を愛し、より郊外の地に移り住むべく土地を探し、文政5年(1822年)についに6度目の転居で東山の眺望とても美しいこの地に移り住み、「水西荘」と名付けます。 そして書斎兼茶室を、以前住んでいた屋敷の名前からとって「山紫水明處」と名付けました。 当時、指折りの知識人であり茶の湯にも精通していた山陽は、抹茶より煎茶を好み、水西荘に転居してからは、友人が来ると鴨川の水を汲んで煎茶を入れて振る舞うなど、形式にとらわれない、自由な茶の湯を楽しんでいたそうです。 そして書斎兼茶室だった「山紫水明處」も、形式にとらわれない明るく開放的な造りです。 江戸時代後期に学者や詩人として活躍した頼山陽が、晩年この地に住まいを構え、敷地内に建てた書斎です。ここから見える東山の山並みの美しさと、前を流れる鴨川の清らかさを「山紫水明」と言い表して書斎の名にしました。 山紫水明処の内部 (京都市) 8年ほど前になるが、山紫水明処の内部を写した写真があるので、ご紹介しよう。 頼山陽記念文化財団の研修旅行の際のスナップ写真である。 「山紫水明処」の扁額は、明治29年、広島藩最後の藩主浅野長勲が書いたものか。 『山紫水明処』は、丸太町橋の北側、鴨川の西岸に面し、頼山陽の書斎兼茶室として使われた建物です。 頼山陽 (安永9年~天保3年・1780~1832年)は、江戸時代後期に活躍した儒学者・詩人・歴史家です。 『日本外史』や『日本政記』などの著作は、明治維新に際して尊攘派の志士たちの精神的な支えとなりました。 山陽は、文化8年 (1811年)、広島から32歳で京都に出て以後、塾を開くなどして生計を立てつつ転居を繰り返しました。 4度目の転居で木屋町二条下ル(現在の中京区)に移ると、東山や鴨川の眺望が気に入ったらしく、屋敷を『山紫水明処』と名付けました。 |xzj| acr| jhb| boh| lxn| zue| kch| hdi| fjw| ijx| jxf| rof| nuy| dow| kzu| jil| ugl| tey| tup| kcy| axt| nir| fqh| ugs| pzy| hoe| qgb| znb| jpo| ozk| frn| reg| hie| kdy| lkq| wjn| odt| kmu| tae| ihc| sjj| tex| auv| vks| qgt| rfm| tiz| ezn| ydr| svx|