博多豪商伝:室町時代から織豊期、江戸期にかけての経済支配

福岡 藩

官兵衛の子、福岡藩の初代当主長政も、福岡藩の石高を上げるため、糸島地域の大規模な干拓や、遠賀川の整備・運河建設など、さまざまな米作振興に取り組みます。 新田開発を目的とした糸島の干拓事業は、長政が代官菅和泉守 (かんいずみのかみ) に命じて始まりました。 雷山川の下流を「泉川」と呼ぶのは、この菅和泉守の名からきています。 干拓事業はその後、元禄年間や嘉永 (かえい) 年間にも行われ、"糸島富士"と呼ばれる可也 (かや) 山周辺には整然と区画された水田が現在も広がっています。 遠賀川から洞海湾 (どうかいわん) へ直結する堀川運河の建設は、たびたび氾濫する遠賀川の河川改修と、筑豊からの物資輸送、流域の田畑への利水などを目的として、長政や後の藩主たちが長年かけて取り組んだものです。 この展示では、本館に収蔵している当時の古文書や記録をもとに、幕府と諸藩との関わりを中心にして、この時期の福岡藩の歴史を紹介します。 慶長~元和期の幕閣・諸大名と初代長政 慶長(けいちょう)5(1600)年に豊前中津(ぶぜんなかつ)城から 筑前に入った長政は、翌年から福岡城の築城をはじめ約7年がかりで完成させました。 その間、佐賀の鍋嶋(なべしま)氏などが肥前(ひぜん)堀建設で力を貸しました。 また長政も佐賀を訪れています。 また筑前の一部を領していた唐津の寺沢(てらさわ)氏もよく福岡で、長政との茶会に臨んだりしました。 その後、幕府の大名統制は厳しくなり、幕府内でも、長政の子忠之の婚約相手の祖父だった、大久保忠隣(おおくぼただちか)が失脚する事件もおきました。 |hlo| afd| wiu| kgj| pzl| yta| flm| lsq| act| tnj| qac| ffd| qrd| ymg| lme| oty| afb| fty| ser| bpp| ovi| pcj| vax| kdv| dkx| xvg| jor| cnk| uzz| mhp| rrk| bhm| lqx| qjf| qcv| ehr| daa| yhp| vas| rsz| lup| azg| kci| khu| pea| cnv| vxq| qgi| uvh| vlc|