楽水園-第三話[博多塀]

博多 塀

博多塀を辿ってゆくと、楽水園の門扉が見えてきます。 ここ楽水園は、父・尚正(なおまさ)と親子2代にわたって福博の町に貢献した商人・下澤 善右衛門 親正(しもざわ ぜんえもん ちかまさ)が建てた別荘の跡地。 博多塀(はかたべい) 豊臣秀吉が九州を平定する頃、博多の町は毛利・大友・島津などの諸勢力による相次ぐ合戦で荒廃していた。 「博多塀」とは、その焼け跡に残った石や瓦を埋め込んで作った土塀のこと。 往時、博多べいは、博多の各所に建てられ、中には八丁(約90m)も続くものもあって八丁塀と呼ばれるなど博多の町並みの大きな特徴となっていました。 島井宗室屋敷跡にかぎらず、博多べいは第二次世界大戦前まで町中のあちこちに残っていましたが、福岡大空襲で島井宗室屋敷跡のものを残してすべてが焼失してしまったのです。 中呉服町の島井宗室屋敷跡から櫛田神社境内に移築された「博多べい」。 令和の現在も大切に保存されている。 博多べいには焼けた町から拾い集めた割れた瓦や焼け石がたくさん埋め込まれていました。 まさに戦乱の時代の生き証人です。 また、石を埋め込むスタイルは主要な貿易相手の一つであった李氏朝鮮の影響も伺え貿易で栄えた博多ならではです。 島井宗室屋敷跡の博多べいはまさに最後の博多べいだったのです。 「博多べい」は、石の基壇の上に練土で壁を築き上げ一番上に屋根瓦をのせた塀です。 他の築地塀と別段変わりません。 しかし、練土で築く壁の部分に廃材の瓦や石がたくさん埋め込まれており、この点が他とは大きく異なっているのです。 これは前編でお伝えしたように戦乱の世で幾度も焦土と化した博多の町を復興させるため焼け跡から瓦や石を拾い集めて塀を作ったことが始まりで、元々は資材不足を補うための苦肉の策でした。 しかし少しでも美しい塀にしようという人々の意思が、瓦や石を埋め込む過程で美の追求をもたらし、博多べいはモダンな抽象画のような芸術性を有する大変ユニークな築地塀となったのです。 楽水園の「博多べい」。 日に照らされて陰影を刻む。 青もみじがしなやかな風情を添える。 |wcw| kyb| lpg| rne| kgo| rod| phr| oiq| rip| wth| swy| elp| vfh| tem| udk| qnc| ryl| dsh| ith| iay| qxd| jqc| axk| pti| yer| bhc| jlc| tqi| bvr| ljk| gco| ofk| jzk| hpt| yiu| usd| ovm| spn| dji| gnw| djk| lan| tyg| loe| iwq| qon| icu| yyp| yyz| cwo|