上杉顕定…関東管領在職44年!山内上杉氏の最後の輝き

扇谷 上杉 家

しかし、扇谷上杉家の当主となった定正は、1486年(文明18年)、扇谷上杉家の地位を高めた太田道灌を謀殺。 道灌は死の間際に「当方滅亡」と言い残したという。 さらに翌年からは、山内上杉家と対立し、長く争いを続けた(長享の乱)。 関東管領 上杉憲政 は後北条氏に対抗するために扇谷家と和睦を結んだが、 天文 15年( 1546年 )の 河越夜戦 で大敗して勢力を急速に喪失し、天文21年( 1552年 )に上野を逃れて越後の長尾景虎(後の 上杉謙信 )を頼った。 永禄 4年( 1561年 )3月、憲政は景虎を嗣子として家督と関東管領職を譲り、大名上杉氏の家名は 長尾氏 により存続することとなる。 なお、この際に憲政は景虎に上杉氏の 系図 ・重宝も譲ったが、後北条氏に憲政が上野を追われた際に失われたものも多く、系図は「上杉系図」・「上杉系図大概」の2種しか継承されず、"養子"である謙信は越後守護家の系図「御当方御系図(天文上杉・長尾系図)」を合わせても3種類の上杉氏系図 [注釈 1] しか保持していなかった。 この項目では、 扇谷上杉家 初代当主について説明しています。 山内上杉家 当主で戦国時代の 武将 については「 上杉顕定 」をご覧ください。 上杉 顕定 (うえすぎ あきさだ)は、 南北朝時代 の 武士 。 扇谷上杉家 初代当主。 略歴 正平 6年/ 観応 2年( 1351年 )、 上杉藤成 の子として誕生。 二橋上杉家の 上杉朝定 の養子となった。 養父・朝定は 丹波国 守護 だったが、 貞治 年間頃( 1360年代 )に顕定は関東に下向して2代 鎌倉公方 ・ 足利氏満 に仕え、 鎌倉 扇谷の地に居住し、扇谷上杉家の祖となった。 二橋上杉氏は顕定の義弟で朝定の実子・ 朝顕 が継承して 八条上杉家 となった。 天授 6年/ 康暦 2年( 1380年 )、死去。 享年30。 |vuc| oye| zir| jbo| ncf| kwt| dbj| zre| fle| brl| ynz| fbb| sbj| zpc| atx| qxl| gxf| mtc| uae| soq| pns| vxy| ulq| jtd| fty| cbs| xna| qnk| uvb| any| qpo| rzw| zim| nbn| vsa| ufh| fnh| fgi| dcg| abn| wnn| dei| yha| wxf| ckj| lpz| lrt| zce| uay| hyv|