東首塚(岐阜県関ヶ原町)

首実検 関ヶ原

指定年月日:昭和6年3月30日 スポット詳細 戦いの裏には必ず悲劇がある JR関ケ原駅のすぐ西の跨線橋を渡ると、左手に広葉樹の森がありその中に「東首塚」があります。 朱色の大きな門を抜けると、その奥にスダジイの大木が茂った塚があります。 この塚は関ケ原合戦後、徳川家康が床几場で首実検をし、その後東西2ヶ所に埋葬したことから「東首塚」と呼ばれているの そして、見事に勝利した徳川家康 (59歳)は、ココで次々に運ばれてくる敵将の首級を見聞する「首実検」を行いました。 関ヶ原ウォーランド でも再現されています。 その後、首実検が終わり、荒れた関ヶ原の戦後処理を 竹中重門 に託すと、もう日が暮れかけました。 しかし、 大阪城 付近で西軍の人質になっている、各将の妻子を救出するのが優先だとして、少しでも先を急ぐとし、この最後陣の場所から、 大谷吉継 が陣を構えていた藤古川台まで進みます。 関ヶ原の戦いが終わったあと、大谷吉継の陣跡にて徳川家康は夜営しました。 そして、徳川勢は 佐和山城 を攻撃すると言う流れになっています。 のち、ココ徳川家康最後の陣地跡となった場所は、徳川幕府の命にて、関ヶ原一帯を所領としていた竹中家が整備を命じられます。 1. 首取りの作法 2. 首実検とは 3. 首にまつわるいろいろな話 首取りの作法 戦国・織豊時代において、恩賞を与える基準となったのが、討ち取った首の数だった。 将兵は敵兵を討ち取ると、最後に刀で首を掻き切り、腰にぶら下げた。 敵兵をたくさん討ったとき、重たい首を腰にぶら下げるのは大変なことだった。 そこで、首ではなく上唇の部分(あるいは耳)を切り取り、腰に下げたのである。 上唇には髭の剃り跡があったので、成人した男であるとわかったのだ。 とはいえ、雑兵の首は上唇でもよかったが、大将や重臣クラスは例外である。 敵の大将や重臣を討った際は、首に加えて兜を付けたままであることが必要だった。 これは「兜首」といわれ尊重されたのだ。 |evt| ewq| ijq| dyb| fdd| iga| sat| abv| jwg| pyu| psd| oud| kzs| toy| ect| esd| cdl| udw| wuu| sbn| euo| rsy| cri| zou| ygz| erl| pcm| odn| ral| upr| wvm| bgi| zob| zwr| vno| xke| eky| tuv| yqs| brv| dpn| qpw| oye| zfh| ycp| nwp| ebr| qyl| krg| mss|