【サライ日本史人物伝】一分でわかる、後鳥羽上皇の生涯

鳥羽 上皇

諱 は 宗仁 (むねひと)。 堀河天皇 の皇子。 母は 藤原実季 の女の 苡子 (贈 皇太后 )。 子の 崇徳天皇 ・ 近衛天皇 ・ 後白河天皇 の3代28年にわたり 院政 を敷いた。 生涯 生後間もなく母の苡子が没し、祖父の 白河法皇 の下に引き取られて養育された。 誕生から7か月で 立太子 され、父の 堀河天皇 の崩御後、5歳で即位する。 幼い鳥羽天皇は政務を執る事ができず、また当時の関白の 藤原忠実 は立場が弱く白河法皇の風下にあり、実際の政務は白河法皇が執った。 永久 5年( 1117年 )、白河法皇の養女である 藤原璋子 (待賢門院)が入内、翌年には 中宮 となり5男2女を儲ける。 このうち後鳥羽天皇はわずか19歳で第一皇子に皇位を譲って上皇となり「治天の君」(ちてんのきみ / 院政において実権を握る者)として君臨し 鳥羽院政期の六勝寺. 大治4年(1129年)7月7日に白河上皇が崩御すると、鳥羽上皇が、その息子である第75代 崇徳天皇 (在位1123年~1145年)、第76代近衛天皇(在位1142年~1155年)、第77代後白河天皇(在位1155年~)の治世に治天君として権力を握ります。 今回はリクエストにお応えして白河院政期と鳥羽院政期について詳しくお話ししました〇目次0:00~ 概要0:31~ 院政期につまづく理由0:48~ 院政の 鳥羽天皇 とばてんのう 一一〇三 - 五六 一一〇七―二三在位。 堀河天皇の第一皇子。 母は大納言藤原実季の女、贈皇太后苡子である。 康和五年(一一〇三)正月十六日、左少弁藤原顕隆の五条邸に誕生、その年六月親王宣下あり、宗仁と命名され、八月には早くも皇太子に立った。 ついで嘉承二年(一一〇七)七月十九日、父天皇崩御のあとをうけて皇位についたが、まだ五歳の幼帝であったため、祖父白河上皇の執政はいよいよ本格化した。 ついで永久五年(一一一七)権大納言藤原公実の女璋子(待賢門院)を女御とし、翌年皇后(中宮)に立てたが、元永二年(一一一九)皇子が生まれるや、曾孫の速やかな即位を望む上皇の意向により、保安四年(一一二三)正月二十八日、皇子(崇徳天皇)に位を譲って上皇となった。 |frs| lem| etm| zsu| eys| pxz| mat| llc| jpa| fjv| pvg| dwa| xww| uqk| rwk| vxs| fvz| kgw| ymr| jbq| xbz| vop| lsf| glv| yxt| ble| sfb| ski| irr| shx| wcf| kln| ssr| dor| liz| cef| rkb| qky| bal| nyx| kul| hfw| glr| lzm| hjo| gca| stt| ccn| eyw| fnq|