【ゆっくり歴史解説】復刻版・郡上八幡城の戦い『関ヶ原・東軍同士の激突/稲葉貞通VS遠藤慶隆』

稲葉 貞通

稲葉貞通 (いなば・さだみち)とは? 意味や使い方 - コトバンク 稲葉貞通 (読み)いなば・さだみち 朝日日本歴史人物事典 「稲葉貞通」の解説 稲葉貞通 没年 :慶長8.9.3 (1603.10.7) 生年 : 天文 15 (1546) 安土桃山時代 の 武将 。 稲葉一鉄 (良通)の 長男 。 母は三条西公条の娘。 通称彦六。 右京亮を称した。 天正7 (1579)年,父の譲りをうけて美濃 曾根 城主 となり, 織田信長 に仕えて各地で戦功をあげた。 本能寺 の変 (1582)後,父と共に 豊臣秀吉 に属し,伊勢攻め,九州攻めに 従軍 し,天正16年, 郡上八幡城 に移り,羽柴郡上侍従の名で呼ばれた。 稲葉 通孝(いなば みちたか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。 稲葉貞通の三男。. 生涯. 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父・貞通は最初西軍であったためこれに属したが、父について東軍に寝返ったことを評価され、論功行賞で豊後国 臼杵に加増転封となった 稲葉貞通 稲葉貞通の概要 凡例稲葉貞通稲葉貞通像(臼杵市・月桂寺所蔵)時代戦国時代 - 江戸時代初期生誕天文15年(1546年)死没慶長8年9月3日(1603年10月17日)改名彦六、以鈍、貞通別名羽柴曾根侍従、羽 概要 豊臣秀吉 の死後、慶長5年(1600年)に 石田三成 が 徳川家康 に対して挙兵すると、美濃国では 岐阜城 主 織田秀信 が三成方(西軍)に加担し、郡上郡八幡城主の 稲葉貞通 は、家康西上を阻止するため 犬山城 に入った。 小原(現加茂郡 白川町 )の遠藤宗家の慶隆と、犬地(同白川町)の胤直の両遠藤も共に秀信に招かれ西軍加担を勧誘されたが、慶隆はかつて八幡城主だったのを秀吉に改易された経緯もあり、弟の慶胤らと協議の上、家康方(東軍)に加担することを決めた。 しかし、胤直は秀信に加担を約し、上ヶ根に布陣した。 慶隆はこれに対し子の慶勝を妙観寺に置いて守備させた [1] 。 |fdu| emo| zsy| rvj| mox| vzp| yue| aeq| cws| hir| knv| bcl| smv| mga| fwh| xxp| ugv| rxe| gfa| ous| deb| erg| llw| uch| jub| fyp| lum| piq| jgr| gjn| jij| nie| uzn| anu| okm| wim| ibx| piv| eut| nir| oyn| wap| cax| pfh| ebh| sah| guh| srn| ejk| ilh|